義務と権利と母

最近倖田來未関連で毎日妙にアクセスしてくる人がいるんだけど、僕は別に倖田來未という芸能人に対しては何の興味もないんですよね。多くの女の子達に楽しみを与えてあげて偉いなあという程度で。
でもまあ、明らかにいじめられている人を見かけたら「おいおい何があったか知らないけどその辺にしておけば?泣いてるじゃねえか」と声をかけるのが普通じゃないか?俺がおかしいのか?まあ同意を求める気は無いのでどうでもいいが。
で、この関連で最も鋭いなと思った意見が「これは大衆の一方的なリンチ。大衆は芸能人を制裁したり許したりする権利を勝手に取得しているけど、それに見合う義務は何も果たしていない」と言うもの。
なるほど。要するに「義務を果たさずに権利を主張できるなんて夢のよう!!」っていう発想がこのバッシングブームなのか。これはわかりやすい。これってひょっとして人類が始めて発明した錬金術なんじゃねえか?
でもハガレンによると「等価交換が錬金術の原則」らしいからなあ。「等価交換している時点で錬金術じゃねえだろ」と言うツッコミはひとまず無視して(あくまで作品世界での話だから)、大衆は「気持ち良いバッシング」の対価として「バラエティ番組が全部クイズと教育番組」という面白くもなんともない「エンターテインメント」を手に入れたわけか。まあ俺はそんな世界ごめんだから無駄なバッシングは遠慮しておくわ。やくみつるとか四位とか溜め殺しとか、俺に実害を与える人は遠慮なく批判するけど。「対価を払う」という義務の範囲内の「権利行使」だもんね。これに変に圧力をかけちゃうのも歪みの原因になるわけだな。
あと、この羊水絡みでもう一つ凄いなと思ったのが、どこかのお母さんの意見で「こんな物気にしてるような女はそもそも子供なんかとても産めないわよ!お産の痛みはとんでもないんだから!」というもの。これ凄いなあ。確かにこの程度の発言で深く傷ついてトラウマになるような貧弱な神経だったら、羊水が腐ろうが発酵しようがお産の痛みに耐え切れないわな。こういうお母さんの子供は幸せだろうなあ。
この倖田來未っていう人は「エロカッコいい」っていう価値観で売ってきた人ですよね。良く知らないけど、これって少なからず性的なニュアンスで売って来ているわけですよね?そういう人が女性性を笑いものにするような発言をする事は、非常に快楽主義で性を軽んじているともとれるな。
赤ちゃんポストを設置した熊本の慈恵病院みたいなところが「育児を出来る能力がない子が妊娠して子供を捨てるケースが増えている。若い女の子に大きな影響を与えるアーティストが、性をファッションとしてとらえるような表現をする事で尊い命が失われるのはよろしくない」みたいなニュアンスで批判するのはありかな。
これも、上のお母さんの場合は「出産」慈恵病院の場合は「無償で捨てられた赤ちゃんを育てている」という義務を果たしているから発言に説得力があるんですよね。
大山倍達の「実戦無くんば証明さず。証明無くんば信用されず。信用無くんば尊敬されず」みたいなものか。
今って明らかに、義務を果たしてない人間の権利が重視されて、義務を果たしている人間の権利が阻害されているもんね。そりゃ世の中暗くなるわ。解決方法としては、やっぱりみんなで良いものは力いっぱい褒めるしかないんじゃないかね。あと、義務と権利のバランスっていうのは法解釈の指針として重視すべき価値観かもしれない。