悪意って


加藤某が秋葉原で暴れて以来日本列島に空前の通り魔ブームが到来したように見えたんですけど最近はもう流行って無いんですか?それともマスコミが飽きちゃったから報道されて無いだけ?
とか書こうと思っていたら東金で悲しい事件が起きちゃいましたけど。


さて。あの事件が起きた時に色々彼の心の闇を読み取ろうとしたり社会状況から解釈しようとした人は一杯いたわけですけど、単純にこの三島由紀夫の名作を読んでおけばいいんじゃね?と思うんですよね。


中でもこの部分。
私はこの窓辺で、又さきほどの想念を追いはじめた。何故私が金閣寺を焼こうという考えより先に、老師を殺そうという考えに達しなかったのかと自ら問うた。
それまでにも老師を殺そうという考えは全く浮かばぬでは無かったが、忽ちその無効が知れた。何故なら老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と限りなく闇の地平から現れてくるのがわかっていたからである。
おしなべて生あるものは、金閣の様に厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然の諸々の属性の一部を受け持ち、かけがえのきく方法でそれを伝播し、繁殖するに過ぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。
そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻が浮かび、金閣の不壊の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶する事ができないのだ。そして金閣のように不滅な物は消滅させる事が出来るのだ。どうして人はそこに気付かぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。
明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破壊であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らす事になるのである。


これを
老師=工場長
美の総量=平和
と代入しちゃえば結構語れちゃうんじゃないかなと。
一応言っておきますけど、別に彼を弁護する訳じゃないっすよ。むしろ全く自分には理解できないだろうから、理解していると思われる側の価値観を読んでみたいなという話なわけで。


こうしてみると、通り魔というのは「殺人=恨みのある特定人物を亡き者にしようという行為」とは違うという事がわかりますよね。美=平和を破壊したいのであって。
普通に考えたら「生命=この世にたった一つのかけがえのないもの。作り物=壊れたらまた作れば良い」で終わりですよね。モータル=滅びの運命を持つものという意味だと思うので主人公もそう思っている。ならばモータルなものは根絶できないとはどういうことなのか。


おそらく偉い学者先生とかが正しい解釈をしていると思うんですけど、そういうものは一切読んでいない僕が真っ先に頭に浮かんだのは養老孟司先生と前田日明の対談なんですよ。
その中で
前田「生きているって言うのはどういうことなんですかね?」
養老「システムがあるということです」
前田「じゃあロボットでも自分の分身を自分で作るシステムがあれば生きているということ?」
養老「おっしゃる通りです」
みたいなやり取りが確かあったんですよ。細かい部分うろ覚えですけど。
要するに「生きている」と言う事は個体の問題ではないと。「受け継いでいく」という意思がないと生きている事にはならないと。
DNAレベルで人間(というか生き物)は伝播していくことを本能で望んでいるものなんでしょうね。
ここで思い出すのは彼が女性にモテないことを恨む日記(ブログ)を残していた事なんですよね(すいませんこの辺もうろ覚え)。通り魔って言うのはこの本能を社会に拒否されている強迫観念から生まれるんだろうなあ。
ちなみに三島由紀夫解釈論文を書いている橋本治ですけど

三島文学の中で繰り返されるテーマは「独りでも生きていける!」ではあるけど「初めから自分はたった一人であった」と気付いた時にこの作家の生命は終わる。
と解説しているんですね。ここら辺も孤独な犯罪者の内面を考える上で興味深い。ただ、橋本治氏は「15か16だった私は教室の中のスターだった」らしいので(本気なのかギャグで書いてるのか知りませんけど)、三島由紀夫のことを「嫌いな同級生の体臭に嫌気がさす」と言っているくらいなので、この辺は「いわゆるオタク」と「いわゆる一般人」の深い溝のような物を感じる。


なんて事を考えながら本を読んでも面白くないですよね。個人的には「金閣寺」は死ぬ気満々で用意周到に行動していながら最終的に「生きようと思った」っていう脱力的大オチの凄さが全てだと思います。