連作(1)

このブログを観てくださっている方は高確率で競馬やアニメ鑑賞を趣味にしておられる方な訳で、そもそも私がどういう人間で何の為にブログを始めたのか御存じない方がほとんどだと思うのですが(もちろんそれで全く構わないのですけど)、私はそもそもパン職人であり製品開発や新規店舗立ち上げ、指導などをしていたので、その経験を何かにまとめたいと思ってサイト立ち上げを思いつき、その練習としてブログを作り、毎週自分の思考を積み上げていく材料として重宝するから競馬の予想を書き始めたんですよね。だからタイトルが「うまぱん」なんですよ。何かの間違いで最近ずっと予想は当たっていますけど(笑)、予想すること自体が楽しいだけでお金儲けとかはまるで考えてないです。完全にギャンブラーとしては失格。


そのサイトのトップには、自分の座右の銘として「Don't Feel. Think」と掲げています。言うまでも無くブルース・リー「Don't Think. Feel」の意趣返しですね。
断わっておきますけど、自分はブルース・リーは大好きですし尊敬しています。だからこそ、というか自分の方がより正確に意味を表現できていると思うんですよね。もっと正確に言うと「Don't be subject to your emotion.Trust Your Senses」かな。文法曖昧ですけど。


まあとにかくですね。


自分は「考えるより感性を大事にしろ」と言う人間は信用しないんですよ。元々職人だから、言葉では表現でできない感覚の部分が大きいのは承知の上ですよ。
別にですね。言葉を使った物だけが「思考」とは思っていないんですよ。山田英司氏が著書の中で「空手の型と言うのは実践には役に立たないと思われて疎かにされがちだが、あれは言語化できない身体の動きを、伝承可能な形にした優れた情報媒体」というような事を書いていたんですけど、これはイメージしやすいと思います。「右腕を、肘を45度よりやや鋭角に曲げて手の甲を下にして拳を握り、脚は○○cm開いて・・・」とごちゃごちゃ書くくらいなら、師匠が前に立って「はい!こうやってこう!」と見本を見せる方が明らかに効率が良いに決まってますから。
ここで大事なのは、文字を媒体として頭を使おうが型を媒体として身体を使おうが、結局の所何も考えずにただ真似するだけでは何もならないんですよ。


雀鬼としてしられる桜井章一氏は「情報や知識に頼り過ぎると、判断を誤る確率が高くなる。情報のないところで当てていく感性が必要。」と、いわゆる「考えるな。感じろ」支持をしているんですけど、これって先日書いた「ベイズ推定」なんですよね。
「情報の何もない所で当てていく=思考では無く感性」という発想自体がもう間違いなんですよ。雀鬼自体もそれは分かっているはずなんですよね。雀鬼流という麻雀の流派はほぼツモった瞬間に捨て牌する流儀なので一見「思考を捨てて感性で打っている」と解釈できるんですけど、トークショーの時にご自分で「悪いけど、我々はあの瞬間に人の何十倍も考えているんですよ」って言っちゃってますからね。



じゃあ「思考」と「感性」の違いって何かというと、わかりやすく競馬予想で言うと、前日までにそのレースの傾向や各馬の特長(情報)を集めて推理する、私が前日予想で毎回ブログに書いているようなものは「思考」ですよね。そしてレース当日、天候や馬場状態、その日の傾向やパドックや返し馬での状態も踏まえて最終的に買い目を決定する。これが「感性」。


じゃあ「感性」は、全く考えずに当てずっぽうで買い目を決定しているのかというとそんなわけないじゃないですか。誰がどう観ても「考えて」いますよね。


そういう意味で、「前日の予想に固執しないで、最後の買い目の判断を柔軟に対応する事が重要」という意味で「思考より感性が大事」というなら十分納得しますよ。



自分が言いたいのはですね。
「考えろといわれても考えようとしない」というのは、割と言い訳がしづらいと思うんですよね。それに比べて「感じろと言われても感じようとしない」っていうのは言い訳が効いちゃうと思うんですよね。例えばサッカーの試合中に難しいタイミングでスルーパスを出して、受け手が反応せずに通らなかったとします。「何も考えていないから反応できないんだ!」というと受け手が悪い気がしますけど、「何も感じないから反応できないんだ!」というと「おいおい。勝手に相手が感じる事を期待するお前のわがままパスが悪いんだろ」というリアクションは容易に想像できますよね。


でもこれ、言葉を変えただけで同じ事を言ってるじゃないですか。


僕の中では「感性≒ベイズ推論=思考」なので、感性と思考はほぼ同一なんですよ。困るのは、「考えるな、感じろ!」という人の「感性」は大抵の場合「感情」なんですよね。それが嫌なんですよ。ただ単に自分の感情を押し付けて逃げる事の言い訳として「考えるな。感じろ」という言葉を使われるのが嫌なんです。